のびーる、ねばーる、もっちり。餅の魅力のおおもとは、素材のもち米のおかげだが、この食感がご先祖さまは大いに気に入ったようで、大陸から伝播して以来、ずっと暮らしに取り入れてきた。もっとも、米そのものがハレの日だけに口にできる食べものだったから、うるち米よりさらに贅沢なもち米はことさらありがたいものだった。
その証拠に、子供が誕生したとか、家を建てたとか、嫁をもらったなどなど、この国では祝い事があればすぐに餅をつく。餅は人生の節目に寄り添う食べものなのである。人生最初の餅との出会いは、今も米どころで行われている力餅の風習。一歳児に一升餅などと称した大きな餅を踏ませたり、背負って這い這いする頑張りぶりに声援をおくったりして、すこやかな成長を祈るのである。
建前の祝いに餅をまくのも楽しい。わたしはわが家のアルバムの古写真で自分の姿を目にしただけなのに、祖父に抱かれて屋根の上からから元気よく餅をまいた記憶がくっきりとインプットされている。餅が発するパワーが写真に乗り移り、わたしの心に刷り込まれたのだろうか。
餅には霊力があるとされ、神社や寺の儀式にも欠かせない。その関連でいえば、福井県鯖江市河和田で取材したオコナイの餅まきは、なんとも迫力があった。
オコナイは京都などの大寺院の修正会や修二会が起こりといわれ、西日本を主にした各地に伝播して、五穀豊饒と地域安全を祈る民俗行事となった。滋賀県の湖北や甲賀では乗用車のタイヤほどもある特大鏡餅や彩りうるわしい餅花などを供えるが、福井の河和田ではそれらは簡略化され、餅まきをメインにした行事になっている。
河和田塗で知られる河和田は古来から漆器づくりの盛んな土地だが、オコナイのある一月中旬は雪に封じ込められる。集落の神社に向かうと、物売りの屋台まで出ていて、なかなかの賑わい。社殿は石段を上った高台にあり、裃をつけた厄年の男性がそこから餅を投げるのである。
村人たちが境内を埋めつくすと、餅まきが始まった。平べったい丸餅でかなり大きく、ピザパイほどもある。取り損ねた餅は泥が付いたり割れたりするが、そんなことは気にもせず、人々は我先に拾い上げる。と、隣に立っていたおばあさんがしゃがみ込んだ。あわてて様子を見ると、餅が額に命中したらしく顔面血まみれ。それでもご当人は餅を抱きしめ、にこにこ顔なのだ。
俳句では餅は冬の季語とされる。東日本の切り餅、西日本の丸餅と形が異なり、炭から電気、ガスへと熱源は変われど、餅を焼くときの厳粛な気持ちは古今東西不変である。欲張りなわたしは、正月は丸と四角の両方を用意する。食感が微妙に異なり、どちらもおいしいからだ。
なお、歳時記には、ひび割れたものを水に浸す水餅、寒中の寒餅、餅を凍結させる氷餅や凍(し)み餅もある。これらは正月の餅を残さず食べる知恵から始まっている。
かき餅、あられの類も餅に由来する食べもので、固くなったかけらを干して炭火で炙り、醤油や塩で味付けしたのが起こりである。それだけに、農家が副業で始めた店では、原料のもち米から自家栽培という例が多く、ひと味まさる。たとえば店主が「じつは、田んぼにいる時間のほうが長い」と笑う滋賀県大津市の八荒堂。香ばしくてさくさくだから、ぽりぽりが止まらなくて困る。
わたしは民家の建て込んだ下町育ちなので、臼と杵を持ち出し、湯気もうもうと米を蒸して餅をつく情景にずっとあこがれていた。それが思いがけなく実現したのは、家から独立し、部屋の改装をしたとき。大工の棟梁と知り合い、暮れの餅つき会に招かれたのだ。へっぴり腰ながら杵も持たせてもらった。そしてつきたてを大根おろしやあんこでほおばるうれしさ、楽しさ。お客たちがひと通り満腹したあとで、さらにひと臼ふた臼ついて、正月の餅に仕上げることを初めて知った。
最近は町内会主催の餅つきが集会所で開かれるので、糯米を蒸かす白い湯気やぺったんぺったんの音を楽しめる。おろし餅やあんころ餅も分けてもらえる。その行列に十代、二十代の姿も多いから、餅つきはこれからも年中行事として続くだろう。いえ、そうあってほしい。
餅つきの一音響くビルの間 千恵子
和食にスポットが当たり始めるとともに、郷土料理が再認識されてきた。うれしいことだが、都会で味わうだけでは真の魅力はわからない。
たとえば秋田のきりたんぽ。近年は全国区の人気鍋ものになり、郷土料理店だけでなく居酒屋でも食べられ、鍋セットを取り寄せて家庭で楽しむこともできる。それはそれでおいしいのだが、雪国特有の湿りけのある寒気のもとで、湯気をふうふう吹きながらあつつっと口に入れるのとでは、美味の次元が異なる。きりたんぽは、地酒を酌みながら秋田訛りの人たちと鍋を囲んでこそしみじみする食べものだと思う。その席に秋田美人が加わっていようものなら、男性にも女性にも一生の思い出になるに違いない。
きりたんぽは、山で働くマタギや樵(きこり)がにぎり飯を串に刺して焚き火や囲炉裏で焼き、鍋に入れたのが始まり。たんぽとは槍の先にかぶせる覆いとも、蒲の穂の別称ともいわれ、秋田杉の串に巻き付けたご飯にそっくりだからと「たんぽ」と呼ばれるようになり、食べやすく切って煮るところから「きりたんぽ」に転じた。現代のご飯はブランド米・あきたこまちの新米なので、焼きたての香ばしさは天にも昇る心地。また、秋田杉と火の移り香が加わるので、思い出すだけでもたまらない。
きりたんぽと秋田県北部の地鶏を芹、舞茸、ごぼうなどと一緒に鶏ガラスープで煮たのが、きりたんぽ鍋。しかし、きりたんぽと言うだけできりたんぽ鍋を指す場合が多い。歳時記でもきりたんぽが冬の季語になっている。角川さんの句からも、鍋の中できりたんぽが香り野菜とともにくつくつ煮えている情景が浮かぶ。
ところで、山の男たちから始まったせいか、きりたんぽにはワイルドな感じが強い。でも、現地では味付け、具がさまざまなうえ、煮るときにはこまやかに細部にまで気を配る。だからこそ深いコク、余韻が生まれ、ひとすすりごとに、あたたかい郷愁の滋味が広がってくるのだ。
秋田で味わうのなら、おすすめは大館と鹿角のはしご。どちらも県北部の大きな街で、車なら約一時間の距離だが、大館は佐竹藩の、鹿角は南部藩の領地だったため、風土性は微妙に異なる。また大館は比内地鶏の元になった天然記念物・比内鶏の本場だし、鹿角はきりたんぽの発祥地だから、きりたんぽ鍋に関してはどちらも自負が強い。それが対抗意識を生み、おたがいに独自の味を生み出している。ここは、ぜひとも両方行ってみたいものだ。
皮切りは、飛行機で大館能代空港に降り立つのが便利。大館では毎日のようにどこかの集落で朝市が立ち、野菜や果物のほか農器具などまで並ぶが、冬はきりたんぽ鍋の材料が目玉商品。きりたんぽを焼きながら売り、ねぎ、舞茸、芹、ごぼう、里芋、食用菊、山の茸、しぼり大根と呼ぶ辛味大根は山盛りになっている。地元ではきりたんぽ鍋には芹や菊が不可欠で、数種類の茸や里芋が入ったり、大根の辛い汁をつけて食べる家もあるなど、風土色が濃いのだ。
比内地鶏は比内鶏の雄にロードアイランドなどの雌を交配させた一代交雑種で、茶色の羽毛をもち、肉は弾力感としなやかさを兼ね備えている。空港近くの「秋田高原フード」は飼育から食肉加工までの一貫生産で、味のよい雌だけを出荷している。
大館で食べる鍋は、きりたんぽの太さはさまざまだし、斜め切りにしたり、ちぎって入れるなどいろいろだけれど、鶏ガラでじっくりスープをとり、醤油、酒、みりんなどで調味するのは共通。煮込みすぎると雑味が出てしまい、せっかくのきりたんぽと鶏肉が泣くという。あつあつをふうふう食べると、黄金の脂が水玉に散った汁がおいしく、歯応えのいい鶏と、山の風趣に富む芹、茸などにもだしがよくしみている。
縄文遺跡の大湯環状列石がある鹿角でも、朝は市が見もの。そして、夕食はきりたんぽコーディネーターを自称する名物女将の「美ふじ」がいい。銀茸やなら茸などの天然茸をたっぷり入れた本格きりたんぽ鍋のほか、たんぽの穴に鰻の蒲焼を詰めたもの、開いてトマトソースとチーズで焼いたピザ風、古代米製たんぽなどのアイディアたんぽが揃っていて、いずれもうなってしまう味である。
なるほど、きりたんぽとは、どんな食べ方をしてもすばらしい究極の郷土米料理なのだった。
きりたんぽ火の香杉の香谺して 千恵子
NHKラジオの人気番組「ラジオ深夜便・大人の旅ガイド」に毎月1回、生出演しています。わたしの最近の旅のなかから、とっておきのおすすめ「食」をご紹介するコーナーで、本年度で出演6年目を迎えています。
今年最後の放送は、12月28日(水)深夜0時30分頃(暦の上では29日)の出演で、熊本県のすき焼きと郷土料理についてお話しします。「くまもとあか牛」という特産牛の赤身肉のすき焼きは、一度食べたら忘れられません……。
夜おそい時間帯で恐れ入りますが、どうぞお聴きになってください。
ハロウィンの喧騒が過ぎたと思ったら、あっというまにクリスマスシーズンの到来。この国は、舶来というだけで大喜びで受け入れてしまう。わたしもその一人であって、キリスト教徒ではまったくないけれど、十二月二十四日には、イエスキリストの生誕日にはケーキを一切れでも食べないと落ち着かない。
クリスマスイブにはケーキ丸ごと一個の大包みを抱えて帰らないと、一家の長としてのかっこがつかない──という風潮が生まれたのは、昭和三十年代のこと。第二次世界大戦後、洋菓子材料が入手できなかった頃、ケーキ職人たちはやむなく進駐軍の将校クラブやPXで働いたものだが、そこで目にしたのは、あでやかな七面鳥の丸焼きとクリスマスのデコレーションケーキ。
まあ、目を見張ったにちがいない。そして、日本が復興し始めると、彼らは町場に戻って店を再開したり新規開業したが、そのうち何人かのアイディアマンが、おそらくは同時発生的に、教会のミサやサンタクロース等をロマンティックな夢いっぱいのイメージとして強調し、きらきらしたケーキをクリスマスの必須アイテムとして売り込んだ。店頭にはツリーを飾り、ケーキには「メリークリスマス」のカードリース、砂糖菓子のサンタなどをかわいらしくあしらったところ、これが大当たり。
高度経済成長期にバリバリのサラリーマンだった男性にうかがったら、あの時代はクラブやキャバレーでケーキのお土産付きパーティ券を売り出したもので、クリスマスケーキを抱えてのご帰館はそれが始まりではないかとのこと。あれあれである。
クリスマスケーキそのものも変遷してきた。当初はマーガリン混じりのバタークリームもどきで絞り出したピンクや緑の薔薇がデコレーションの中心だったが、良質の生クリームが出回りだすと、ホイップクリームと苺のコンビが子供たちの人気を独占した。おもちゃやマフラーなどプレゼントを買い込み、最後にケーキの箱を加えて大荷物で帰宅するお父さんの姿が目にも浮かんでくるが、そんな光景も最近は少なくなった。すべてネット通販なのだろうか。
話をケーキにもどすと、昭和四十年代からは薪の形をしたブッシュドノエルが流行した。フランス語では「クリスマスの薪」の意味。その頃から欧米の一流シェフやパティシェが日本で開店するようになり、本場の本物を広めたのだ。フランス菓子では六本木の「ルコント」が先駆けで、クリスマスにはロールケーキにチョコレートクリームを塗り、フォークの先で木目を付けて、木の実を飾った“薪”が大流行りした。従来の丸形ケーキとは一味違う本場風デザインが若い女性の心を踊らせたのである。
そして現代は、クリスマスシュトレンがクリスマスケーキ界の先頭を行く。ドイツ発祥のイースト生地の焼き菓子だ。洋酒で漬け込んだ木の実やドライフルーツ、香辛料がどっさり入った生地を香ばしく焼き、粉砂糖をまぶして純白に仕上げ、透明セロファンできっちり包んである。時間をおくほど味が熟成するケーキなので、十一月のうちに買って、クリスマスイブまでを指折り数えながら待つのも楽しみのうちだ。
このケーキは、産着にくるまれたキリストの姿をかたどったものといわれ、ドイツではシュトレンのコンクールがあって、優勝者は洋菓子マイスターの中でも最高の栄誉を得られる。広島の廿日市市には、コンクールで金メダルをとった日本人の職人が開いたドイツ菓子店「コンディトライ・フェルダーシェフ」があり、わたしは毎年ここのシュトレンを欠かさない。なお、ドイツではクッキー生地で組み立てるヘキセンハウスというお菓子の家もクリスマス名物だ。
一方では、手作りのクリスマスケーキにまさるものはないとも思う。今年は、スポンジケーキ、苺、生クリームだけのシンプルなショートケーキでつくりたい。もっとも、苺はあまおう、生クリームは自然放牧牛ミルク製、スポンジ生地の卵や牛乳にも大いにこだわり、砂糖は和三盆糖で……。あれあれ、市販のケーキより高くつきそうだ。
クリスマスケーキ裸眼にまぶし飴細工 千恵子