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俳句エッセー〔4〕 鯛焼き

2017 年 1 月 3 日 No Comment

 すき焼きをテーマにした本をわたしが出したときには、「天下の奇書」と評されたものだが、奇書という点では、『たい焼の魚拓』(JTB出版局)という、拙著の上を行く楽しい一冊がある。河馬や花の写真で知られる宮嶋康彦さんが全国の鯛焼きを行脚し、わざわざ鯛焼きの魚拓をとって、さらにエッセイを添えたものである。
 鯛焼きは、かつての大ヒット曲『およげ!たいやきくん』の歌詞にあるように「鉄板の上で焼かれて……」いるものが多いが、宮嶋さんは鯛の焼型を付けた長鋏で焼く一匹仕上げに愛着し、この手を「天然物」と称した。鉄板で焼く「養殖物」のほうには眼をくれず、ひたすら一匹焼きの鯛焼きだけを探し回り、魚拓エッセイ集にまとめたのである。
 それだけに鯛焼きへの愛情がぎっしり。形の多種多彩ぶりにびっくりしつつ、魚拓に見入ってしまった。東京の鯛焼き御三家の人形町甘酒横丁の「柳屋」、四谷の「わかば」、麻布十番の「浪花家総本店」を皮切りに、北海道から九州まで、なんと三十七軒三十七種の鯛焼きが登場していた。
 昭和中期に鯛焼き論争があったことを覚えておられる方もいらっしゃるだろう。演劇評論家で直木賞作家の安藤鶴夫さんと、食道楽で知られた映画監督の山本嘉次郎さんが鯛焼きについて大真面目に論じ合ったのだ。安藤さんが尻尾まであんこが入っている「わかば」に食べものづくりの誠実さを感じると誉めれば、かたや山本さんは、鯛焼きの尻尾は箸休めだからあんこ入りはしつこいと、尻尾をかりっと仕上げる「浪花家総本店」の肩をもったのだ。
 砂糖がまだ貴重だった時代の論争だったことを思うと、安藤さんの言い分もわかるし、食味重視の山本さんの主張も納得できる。大人が甘味について夢中で言い合って楽しめる時代が、日本にもあったのである。
 わたしは、今まで紹介されたことのないお宝ものの鯛焼きを知っている。十年ほど前の初冬に、国境の島・対馬で見つけた味で、空港から車で北部へ急いでいるときにたまたま出会ったのだ。対馬という名称は、細長い二つの島が向き合った姿を対の島に譬えたことに由来するが、現代では二つの島は鉄橋でつながっている。南側の下島からその橋を渡ろうとする手前で、わたしは鯛焼き屋の看板に気づき、運転手さんに思わずストップ!と叫んだ。
 対馬はリアス式海岸に囲まれた深い森の島で、島の南北を結ぶ幹線道路沿いですら、真っ昼間でも森閑としている。にぎやかな下町のイメージが強い鯛焼きが、そんなところで売られているので不思議に思ったのだが、買い求めて形にびっくり、そして意外な美味に小躍りしてしまった。
 二尾の鯛が向かい合い、巴形になっている。この形がまず珍しいうえ、北海道産小豆を使い、無添加鯛焼きとうたっているのも進んでいる。そして、焼きたてをぱくりとやると、かりっかりの皮からじゅわっとあんが舌にのってきて、なんとも軽やかな甘さ。皮ともよくマッチした味わいだった。ちょうど寒い季節だったので、胃が心地よくあたたまり、鯛焼きをにぎり締めた手指まであたたかくなったのを欲おぼえている。
 鯛焼きは、同類の今川焼きとともに冬の季語。今川焼きとは、江戸時代に神田今川橋で売り出されたことからの名称で、形が似ていると太鼓焼きとも呼ばれるようになった。
 鯛焼きは前述の麻布十番の店の初代が、今川焼きの型を鯛の形に替え、明治末期に麹町で始めたのが始まりだという。その後、その方は飛行船型やバナナ型なども次々に考案したが、けっきょく最後に残ったのは鯛焼きだけだったそうな。古今東西、日本人はめでたい鯛が大好きなのだ。

ポケットの鯛焼きに手を当てており  千恵子

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