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「エッセイ」食べたこと・見たこと・体験したこと ちょっといい話

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[13 6月 2019 | No Comment | ]

 何かがむしょうに食べたくなることがある。どなたにもお覚えがあるだろう。もし、それが夏のじゅんさいだったら、わたしは迷わず産地まで駆けて行く。日本一のじゅんさい産地、秋田県三種町を知って以来のことだ。
 都会の料理屋で卵豆腐にちょんもりのったじゅんさいのおすましぶりもいいものだが、三種町のじゅんさいときたら、森の樹液のような透明ゼリーがこれでもかというほどたっぷりまとわりついており、直売所では小指の先ほどのかわいいのから、葉巻サイズのでっかいものまで選りどりみどりという大迫力なのである。
 袋から透けて見えるじゅんさいの若緑色の爽やかなこと。もちろん加熱なんぞしてない生ばかりだ。これを、どんぶり入りの酢の物にしたり、かき揚げ、鍋にするし、ラーメンやそばの具にも山のように加える。そして、水の味とほろ苦みをしみじみ味わいつつ、わたしはじゅんさいが清水で育つ山菜であることを再認識する。
 じゅんさいはスイレン科の多年草。地下茎が水中で茎をのばし、睡蓮そっくりの葉を水面に浮かばせるが、茎、新芽、開く前のロール状の葉、若葉のすべてがぷるるんとした寒天質のぬめりで覆われているのが特徴。このゼリーがもたらすつるり感がじゅんさいの醍醐味。茎や葉はカロチン、カルシウム、ビタミン等々を含む。
 古代の人たちが栄養価を知っていたはずもないが、固有の清涼感には魅せられたようで、万葉集や古今和歌集にも詠まれている。もっとも、昔はじゅんさい(蓴菜)よりも、ぬなわ(奴那波、蓴)と呼ぶことが多かった。沼の縄の意で、水中に伸びた茎を沼の縄に譬えたのだろう。
 三種町は秋田市から北に向かい、八郎潟を越えたあたり。秋田杉の山々に囲まれ、白神山地がすぐという立地は、清らかな池沼を好むじゅんさいにぴったり。転作田に湧水を引いたじゅんさい池が増えているが、じゅんさい栽培に農薬はご法度だから、環境は天然のままである。
 人間が近づくと、蛙が何匹も草むらから飛び出て池に跳ね、水音がして波紋が広がる。池には泥鰌や鮒もいる。いまどき珍しい自然生態系の中で、じゅんさいはゆるりゆるりと成長していくのである。
 じゅんさいは盥舟の収穫で知られたが、現代の三種町では底が畳一畳ほどの浅い小舟を用いる。盥と同じく一人しか乗れない狭さで、乗っているのは「おばあちゃん」と呼びかけたい年代の方々ばかり。若い人は工場などで働き、お嫁さんはパート勤めという現代の農山漁村共通の構造は、ここでも変わらないのだ。
 ともあれ、わたしも、えいっと、舟に乗ってみた。すぐに思い知らされたのは、じゅんさいの涼しげな印象とは正反対に、収穫は過酷な作業であること。いくら長袖を着込み、手拭いで頬っ被りし、日よけ帽子を被っても、日焼けと暑さからはどうにも逃げようがない。
 じゅんさいの古名が沼の縄に譬えられた理由も、よーくわかった。
 太陽がじりじり照りつけるなか、池へ漕ぎだす。水面に身を乗り出して、ここぞという葉の茂みの下を探る。茎を掴もうとすると、表面がぬるぬる、つるつる。「ぬなわの意地悪めっ」と、手から逃げていく茎に悪態の一つもつきたくなる。なんとか茎をつかまえたら、新芽や巻いた葉を水中で手探りし、爪の先でぷちぷちと一つずつ摘みとっていくのだ。じゅんさいと人間の気の遠くなるような熱いせめぎあいの果てに、涼感あふれる滋味がほんのひとつまみ採れるとは、お釈迦さまも阿弥陀さまも御存じあるまい。
 都会の食いしん坊や酒好きはじゅんさいの可憐な風情を愛する。だが、産地では米や芋と同じくじゅんさいもきつい労働の成果であり、たんなる野菜以上の存在ではない。だからこそ地元では、どっさりたっぷり豪快に楽しむのだ。
 地産地消が叫ばれ、郷土料理が見直されている時代なので、ご当地鍋も現われている。じゅんさい鍋といい、きりたんぽのご飯を団子状のだまこ餅に置き換えた鍋料理というとわかりやすい。もちろん、特産の生じゅんさいをたっぷり入れるのがみそ。お取り寄せもできなくはないけれど、比内地鶏のうま味が溶けだしたスープでじゅんさいをすすり込む贅沢さは、ぜひ現地へ出かけて味わいたいものだ。
 白神の水の精なり生じゅんさい   千恵子

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[10 4月 2019 | No Comment | ]

 有明海の北端に沿って走るのと、佐賀県の白石町周辺はまったく平らだ。佐賀鍋島藩の時代からずっと有明海を干拓し続け、面積を増やしてきた地域なのである。
「江戸時代は、あの道路までずっと海だったんです」と、はるか彼方を指さしたのは、佐賀オニオンファーム代表の中村明さん。そして、くるりと回れ右をして、「今は、あの霞んで見える堤防までずっと畑になりました」と言う通り、四方はどこまでも平坦で、すべて玉ねぎ畑だった。
「おいしい玉ねぎをつくるには、日照時間、地中温度、雨量に恵まれることが大切なんです。白石はそれらの条件を満たしているうえ、干拓地特有の粘土質の土壌なので、玉ねぎが甘くなるんです」とのことだ。
 前年の秋に植え付けた玉ねぎは、4月から6月に収穫する。これが新玉ねぎだ。甘味があり、水分が多く、みずみずしい風味を楽しめる。その代わり、保存はきかない。春のいっときだけの味わいなのである。
 地元ではどう食べているのだろう。白石町の「だるま寿司」では、新玉ねぎをお造りのつまに用いるほか、海苔巻きにする。酢飯、グリーンリーフ、新玉ねぎの薄切り、マヨネーズ、おかか、きゅうりを順に重ねていき、海苔でくるりと巻きあげるのだ。しゃりっとした歯応えがさわやかで、辛味などまったくない。
 農家レストラン「野々香」のアイディア料理は新玉ねぎの炊き込みご飯。下ごしらえした新玉ねぎをベーコン、米と合わせて、土鍋で炊き込む。玉ねぎのとろりと甘い食感がご飯と一体になって、えもいわれぬまろやかさである。
 佐賀市内の「酒肴菜飯 志乃」なら、新玉ねぎのステーキ。厚めの輪切りにチキンコンソメを含ませ、バター醤油が軽く焼いたものだが、一口食べただけで手が止まらなくなる。
 食べ歩くうちにコツがわかった。新玉ねぎは手をかけないくらいのほうがおいしいのだ。

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[24 3月 2019 | No Comment | ]

 岡山県の中央部を東西に貫く中国自動車道。院庄ICの南側の美咲町はTKGのふるさとだ。この英語三文字はスリーレターコードと呼ばれる略号で、日本がJPN、東京がTYO、新東京国際空港(成田)がNRTという表示は貨物のタグなどでよく見かける。TKGもそれと同じで、「卵かけご飯」の略称。
 このTKGを最初に食べた人物は、美咲町出身の岸田吟香(ぎんこう)。明治に活躍したジャーナリスト、実業家である。吟香は朝食に生卵三、四個を割り、大盛りご飯にのせて、焼塩と唐辛子をふってかき混ぜる習慣だったそうな。
 美咲町では、このエピソードを町おこしに活用した卵かけご飯専門の「食堂かめっち」が大人気。地元には大手の優良鶏卵生産会社があるし、棚田百選の「大垪和(おおはが)の棚田」でおいしい米がとれるから、食材についても間違いない。
 「かめっち」の卵かけご飯は、卵とご飯のお代わりが自由。味噌汁、漬け物が付いて三百五十円なり。
 ただし、急いでかっこむのはおすすめできない。まず、丼のまん真ん中のご飯を一口味わう。その後、卵を割って、ご飯の凹んだ部分にそっと載せる。そして、かき混ぜる前に、黄身と白身をちょっぴりずつ味わっておく。新鮮卵はやはりうまいですからね。たれは、しそ・海苔・ねぎのお好みをかければ結構。あとは混ぜて、よく噛んで食べるだけ。
 TKGは栄養的にも完璧。卵でたんぱく質と脂肪、ご飯で糖質がとれるのだ。糖質は即効性があり、脂肪はじわじわ型、たんぱく質は体温を上昇させ、心のテンションを高めてくれる。というわけで、吟香の真似をして朝ごはんにすると、いちばん効果が大きい。幸いなことに「かめっち」は朝九時から営業しているから、朝ごはんにも便利だ。

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[2 2月 2019 | No Comment | ]

幸福感をもたらす色なら、映画タイトルになったハンカチをあげるまでもなく黄色。この色から誰もが最初に連想するのは菜の花。新春の九州・指宿に始まり、五月中旬の下北半島・横浜町まで、菜の花前線の北上に合わせて各地で菜の花マラソンが開かれるのは、黄一色の世界を走る心地よさをランナーが知っているからだ。
菜の花はアブラナ科アブラナ属の黄色い花の通称で、白菜、大根、小松菜、野沢菜などの場合も“菜の花”と呼ばれる。文部省唱歌『おぼろ月夜』で「菜の花畠に入日薄れ……」と歌われている奥信濃・飯山の菜の花も野沢菜のものなのだ。千曲川沿いに黄色のファンタジーを繰り広げる花々が信州名産・野沢菜漬にかかわっていると知って、わたしはいっそう親近感を覚えた。
ともあれ、四枚の花弁が十字形に並ぶ菜の花は、蜜蜂ならずとも惹きつけられる愛らしさ。その魅力は遠景にするとさらに増す。ここを大きくとらえた蕪村の句が日本人の心の原風景にまでなっているのも当然であろう。
ところで、江戸中期に六甲山地の摩耶山で詠まれたというこの句の菜の花は、農業研究者からは搾油用だったとされる。菜の花畑はすなわち菜種の畑だったのだ。
そういえば、「野崎村」の場で知られる鶴屋南北の歌舞伎『お染久松色読販(ルビ=おそめひさまつうきなのみようり)』のヒロイン・お染は油屋の娘と言う設定で、恋人・久松を追って駆けつけた野崎村の舞台下手は菜の花のセットと決まっている。油屋の娘にふさわしい道具立てとして、南北が菜の花を指定したのなら、さすがである。
江戸時代は、油といえば一にも二にも菜種油で、灯火にも食用にも用いられ、油粕は畑の肥料になった。菜の花は実利をともなう景観作物といった存在だった。現代、滋賀県東近江市から始まり、日本中に広まった「菜の花プロジェクト」という菜の花を切り口にして資源循環社会を目指す運動がある。眺めて美しく、種子からは油がとれ、廃油は石鹸になり、バイオ燃料として車まで動かせる菜の花パワーに着目したものだが、この祖型はすでに江戸時代からあったのだ。
菜種油に話をもどすと、平成の食卓で植物油といえばサラダ油やオリーブ油が主流だが、じつは知らないうちにわたしたちは菜種油を口にしている。豆腐屋の油揚げや鹿児島名産の薩摩揚げである。からりと香ばしく、骨太のうまみをもった味に揚げるには菜種油がいちばんなのだ。
こんな根強い需要や、前述の菜の花プロジェクト運動の広がりもあって、輸入菜種一辺倒から近年は国産菜種が少しずつよみがえってきて、地油(上2文字に傍点)を謳う生産者も現われているからうれしい。
もちろん、花菜、菜花などの名で食用としても出荷されている。辛子和えや白和えによく、吸い物、蒸し物、鍋の彩りにもぴったり。春を告げるほろりとした辛味、やさしい歯ごたえ、爽やかな緑色と風情満点なうえ、たんぱく質、カロチン、ビタミン、ミネラルが豊富で、蕾にはストレス緩和、精神安定に効くホルモンまであるそうだから、たくさん食べるにこしたことはない。そうそう、菜の花の蕾が注目されたきっかけは京都の菜の花漬だったそうだから、京都の漬けもの屋には先取りセンスがあるといえる。
一方、関東では房総半島の海辺が食用菜の花の特産地。温暖な安房では昔から切り花用に栽培されていたし、養蜂用にもつくられていたので、スムースに食用に転換できたのだ。
わたしは、房総の突端にある白浜町に菜の花を求めて旅したことがある。なのに、探せども探せども一面緑の菜の花畑ばかり。農家の老夫婦に聞いて理由がわかった。
「花を咲かせたら売れないんだよ」と、夫婦が口を揃えるように、食用は蕾のうちが花。開花すると味は落ちるわ、茎は固くなるわで、商品価値がなくなるのである。
だから、蕾が膨らみ始めたら、せっせと摘むのが日課だという。潮風の吹き抜ける畑で、手のひらにおさまるほどの寸法サイズに折り取って、背中の籠へ入れていく。家へ戻ると一束二百グラムずつにきっちり束ね、紙で巻いて、長さを切り揃える。菜の花のきっちりしたパッケージは、農家の夜なべ仕事に支えられているのだ。他の葉物野菜に比べて割高感があるのもいたしかたない。
菜の花忌薩摩の春は黄いろより 千恵子

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[24 1月 2018 | No Comment | ]

 町を歩けば「みかん」にぶつかる。東京・深川でのこと。江東区白河の深川江戸資料館を出てぶらぶらしていて、紀伊国屋文左衛門の墓を見つけた。近くにある清澄庭園は彼の別荘だったというから、少しも不思議はないのだが、紀伊国屋とわかったとたん、わたしの頭はみかんのことで一杯になってしまった。紀州生まれの文左衛門が特産のみかんを船に満載し、荒海を乗り切って江戸へ運んだという伝説を思い出したのだ。史実かどうかよくわからない話だが、江戸っ子には紀文の度胸のよさがしっかり刷り込まれている。
  当時の紀州みかんは、ずいぶん小ぶりだったし、種もあったらしい。中国から伝わった原種に近いともいわれ、田道間守が伝えた橘の実がみかんの始まりという言い伝えがなんとなく納得できる。現代でも正月の鏡餅の飾り用などに、昔の品種がごく少量出回るようだ。また、鹿児島の桜島みかんも同種のものである。
 いっぽう、遣唐使が鹿児島の長島へ伝えた温州みかんという系統もある。こちらは種がなく大粒なので食べやすく、みかんの主流になった。近代に入ると、早生や晩生の品種が開発され、近年はハウス栽培も盛んになるという具合で、みかんといえば温州みかんを指すようになっている。
 温州みかんの早生種を代表する宮川早生と、九州の水郷・柳川で出合った。柳川藩の屋敷だった料亭旅館・御花を見学して土産品コーナーをのぞいたら、濃いみかん色をしたおいしそうなジュースが並んでいたのである。
 ジュースは瓶入りで、お値段もなかなかのもの。説明書によると、明治時代の当主・立花寛治が農業による地域おこしを志して農園を開き、柳川で生み出された早生みかん・宮川早生を保護育成したそうだ。そのみかんが現代に至るまで立花家の農園で栽培され、ジュースとなっているのである。由来を知った以上は、ぜひとも飲んでみたい。ごくりとやると、濃くて、甘くて、酸味のほどがちょうどよい。その味に戦国時代以来の立花家四百年の歴史が重なるから、さらにおいしい。食べものは物語で彩られていっそう艶やかになるのである。
 みかんは器に山盛りにしてこたつテーブルの上に置くものというイメージがある。たっぷりした量感が心をあたためてくれるのだ。もっとも、子どもたちにとっては、いいおもちゃが目の前にあるということなのだけれど。
 有吉佐和子の小説『有田川』は、みかんに生涯を賭けた女性がヒロインだけに、川の氾濫に苦労しながらみかん栽培に奮闘する農家が描かれていて、読後は、あだおろそかにみかんを食べては罰があたると思ったものだ。その後、みかん産地を何カ所も取材し、現代もなおみかん農家の苦労が続いていることを知った。
 白い花が咲き、黄色く色づいたみかん畑は、唱歌で歌われるとおりに美しくやさしい。たとえば、眼下に宇和海を望む愛媛県明浜町。真冬でも陽光がきらめき、濃緑の山にみかんの黄色が点々と広がる絶景の地で、石垣の整然した幾何美は世界遺産級である。
 しかし、その畑をつくり、維持していくのは並大抵の労働ではない。みかんは温暖小雨、水はけと日当たりがよく、ミネラルを多く含む潮風の吹く土地を好むため、どの産地でも畑は海岸の傾斜地につくらざるをえないからだ。もっこで石をこつこつと運んで、段々畑を築くのである。
 こうした海辺のみかん畑は各地にあるのだが、デコポンなど他の柑橘に転作されたり、放置されたままになっているところが少なくない。家庭からこたつが減ってみかんを食べる習慣が薄れたし、柑橘の種類が増えたうえ、輸入品の増加でみかんの消費量が激減しているのだ。
 こんな状況を打破できる兆しもある。みかんの皮と牛乳を一緒に摂取すると花粉症の症状が緩和されるという研究が進んでいたり、養殖魚の餌にみかんの皮が用いられるようになっているのだ。愛媛では「みかん鯛」と呼ばれる。鯛が病気に強くなり、刺身にするとみかんがほんのり香る。
 わたしは、旅行ではみかんを二、三個かばんに入れておき、車中で楽しむ。皮をむきつつ思い出すのは祖母のこと。母方の祖母はみかんを焼いて食べるのが好きで、皮をむいたみかんを小房に分けては長火鉢の網に並べ、ていねいに焼いていた。熱くなったみかんに炭の香がまとわりつき、おつな味になるのだ。みかんには思い出話がよく似合う。
長火鉢はさんで祖母と蜜柑かな  千縁子

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[13 1月 2018 | No Comment | ]

「しみる」という言葉は、水が傷にしみる、だしが大根にしみる等いろいろな意味に使われる。じわじわじゅんじゅんと広がっていくイメージは、「染みる」と書くのがふさわしい。でも、わたしの場合は「凍(し)みる」を真っ先に連想する。寒中の時季、材料を野外で乾燥させる伝統食品が日本各地で生産されているからだ。寒冷だが雪がふらない気象条件を活用する技術で、夜間の寒さで凍り、太陽が出る日中には溶けて水分を出しを繰り返すうちに、凍結乾燥でからからに干し上がるのである。
 できあがった「凍みもの」は、和食に必要不可欠なうえヘルシーな食材として海外でも注目を浴びている。寒天、寒干し大根、氷餅などだが、寒天以外は食遺産化しつつあるのが現状。せっかくの“食財”なのにもったいない。ちなみに、諏訪特産の氷餅のように、現地よりも都会で客の目にふれている凍みものもある。和菓子にトッピングされている、きらきら光るかき氷のようなあれは、氷餅をフレーク状に砕いたものなのである。
 凍み豆腐(高野豆腐)も元々は凍みものだったが、残念なことに今や機械乾燥が常識で、別の食品になっている。
 寒天産地の信州の諏訪や伊那、あるいは寒干し大根の神岡町などへ出かけるときは、南極か北極に行くぐらいの防寒対策が必要だ。雪国と違って湿気がないため、寒気がきーんと五体に突き刺さってくるのである。
 意外にも、関東地方にも同様な気候がある。それは茨城県・奥久慈地方。水戸から北へ車で一時間半~二時間、すぐ先は福島という県境にあり、中心は大子町。凍結のニュースが毎年必ずテレビに映る袋田の滝のある町で、滝が凍るほどだから田んぼも凍る。
 この風土が育てた逸品が凍みこんにゃく(略して凍みこん)で、現代は奥久慈だけが食用の凍みこんをつくっている。なお、最近は、普通のこんにゃくを家庭の冷凍庫で凍らせたものを「氷こんにゃく」と称している。
 こんにゃくはグルコマンナンという体内で消化しない多糖類のおかげでお腹の掃除に効果大だし、ノンカロリーでもある。この特性は凍らせても不変なことから、氷こんにゃくも話題になっているのだが、奥久慈の凍みこんにゃくとは食感も味も似て非なるものだから、お間違えなきようご注意いただきたい。
 本物の凍みこんは厚さ五ミリほどの名刺サイズ。かさこそした手ざわりの乳白色のスポンジ状で、一枚で生こんにゃく一丁分の繊維質を含むのだからすばらしい。
 もっとも、製造の手間ひまのかかりようは半端ではない。稲藁を敷きつめた凍て田に、生のこんにゃく芋からつくった古式製法のこんにゃくの薄切りを並べるのだ。正月のかるた大会のような感じである。そして、夜間凍結と日中の解凍を繰り返すと、水分とアクが抜けてごく軽量の乾物に変身するのだ。
 おまけ情報だが、凍みこんは、生芋だけに含まれるセラミドの働きで戻してから顔をこすると肌がつるつるになる。また止血剤に使えるほど液体の染みがよい。美肌効果は別として、染み込みのよさは料理には好都合だし、こんにゃく固有のしこしこぷるんとした食感も楽しめるから、メニューの幅が予想外に広い。
 調理の基本はしっかり下味をつけること。生産者のおたくでは、各種煮物のほか卵とじにしたりもする。いずれも煮汁がじゅわっと広がる食感がたまらない。フライ、きんぴら、おこわの具にしても楽しい。この生産者の家は近年、輸出に熱心で、海外でスープの浮き実としてアピールしたら反応がよかったそうだから、まだまだ工夫の余地がある。
 おもしろいのは、凍みこんはの大の消費地が山形県米沢市という事実。郷土料理の「冷や汁」という、冬でも冷たいまま食べる料理に入れるのだ。その理由を地元の人は誰も知らず、わたしも伝播の謎を探求中である。
しろがねに野づら一面凍み蒟蒻  千縁子

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[3 1月 2017 | No Comment | ]

 すき焼きをテーマにした本をわたしが出したときには、「天下の奇書」と評されたものだが、奇書という点では、『たい焼の魚拓』(JTB出版局)という、拙著の上を行く楽しい一冊がある。河馬や花の写真で知られる宮嶋康彦さんが全国の鯛焼きを行脚し、わざわざ鯛焼きの魚拓をとって、さらにエッセイを添えたものである。
 鯛焼きは、かつての大ヒット曲『およげ!たいやきくん』の歌詞にあるように「鉄板の上で焼かれて……」いるものが多いが、宮嶋さんは鯛の焼型を付けた長鋏で焼く一匹仕上げに愛着し、この手を「天然物」と称した。鉄板で焼く「養殖物」のほうには眼をくれず、ひたすら一匹焼きの鯛焼きだけを探し回り、魚拓エッセイ集にまとめたのである。
 それだけに鯛焼きへの愛情がぎっしり。形の多種多彩ぶりにびっくりしつつ、魚拓に見入ってしまった。東京の鯛焼き御三家の人形町甘酒横丁の「柳屋」、四谷の「わかば」、麻布十番の「浪花家総本店」を皮切りに、北海道から九州まで、なんと三十七軒三十七種の鯛焼きが登場していた。
 昭和中期に鯛焼き論争があったことを覚えておられる方もいらっしゃるだろう。演劇評論家で直木賞作家の安藤鶴夫さんと、食道楽で知られた映画監督の山本嘉次郎さんが鯛焼きについて大真面目に論じ合ったのだ。安藤さんが尻尾まであんこが入っている「わかば」に食べものづくりの誠実さを感じると誉めれば、かたや山本さんは、鯛焼きの尻尾は箸休めだからあんこ入りはしつこいと、尻尾をかりっと仕上げる「浪花家総本店」の肩をもったのだ。
 砂糖がまだ貴重だった時代の論争だったことを思うと、安藤さんの言い分もわかるし、食味重視の山本さんの主張も納得できる。大人が甘味について夢中で言い合って楽しめる時代が、日本にもあったのである。
 わたしは、今まで紹介されたことのないお宝ものの鯛焼きを知っている。十年ほど前の初冬に、国境の島・対馬で見つけた味で、空港から車で北部へ急いでいるときにたまたま出会ったのだ。対馬という名称は、細長い二つの島が向き合った姿を対の島に譬えたことに由来するが、現代では二つの島は鉄橋でつながっている。南側の下島からその橋を渡ろうとする手前で、わたしは鯛焼き屋の看板に気づき、運転手さんに思わずストップ!と叫んだ。
 対馬はリアス式海岸に囲まれた深い森の島で、島の南北を結ぶ幹線道路沿いですら、真っ昼間でも森閑としている。にぎやかな下町のイメージが強い鯛焼きが、そんなところで売られているので不思議に思ったのだが、買い求めて形にびっくり、そして意外な美味に小躍りしてしまった。
 二尾の鯛が向かい合い、巴形になっている。この形がまず珍しいうえ、北海道産小豆を使い、無添加鯛焼きとうたっているのも進んでいる。そして、焼きたてをぱくりとやると、かりっかりの皮からじゅわっとあんが舌にのってきて、なんとも軽やかな甘さ。皮ともよくマッチした味わいだった。ちょうど寒い季節だったので、胃が心地よくあたたまり、鯛焼きをにぎり締めた手指まであたたかくなったのを欲おぼえている。
 鯛焼きは、同類の今川焼きとともに冬の季語。今川焼きとは、江戸時代に神田今川橋で売り出されたことからの名称で、形が似ていると太鼓焼きとも呼ばれるようになった。
 鯛焼きは前述の麻布十番の店の初代が、今川焼きの型を鯛の形に替え、明治末期に麹町で始めたのが始まりだという。その後、その方は飛行船型やバナナ型なども次々に考案したが、けっきょく最後に残ったのは鯛焼きだけだったそうな。古今東西、日本人はめでたい鯛が大好きなのだ。
ポケットの鯛焼きに手を当てており  千恵子

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[30 12月 2016 | No Comment | ]

のびーる、ねばーる、もっちり。餅の魅力のおおもとは、素材のもち米のおかげだが、この食感がご先祖さまは大いに気に入ったようで、大陸から伝播して以来、ずっと暮らしに取り入れてきた。もっとも、米そのものがハレの日だけに口にできる食べものだったから、うるち米よりさらに贅沢なもち米はことさらありがたいものだった。
その証拠に、子供が誕生したとか、家を建てたとか、嫁をもらったなどなど、この国では祝い事があればすぐに餅をつく。餅は人生の節目に寄り添う食べものなのである。人生最初の餅との出会いは、今も米どころで行われている力餅の風習。一歳児に一升餅などと称した大きな餅を踏ませたり、背負って這い這いする頑張りぶりに声援をおくったりして、すこやかな成長を祈るのである。
建前の祝いに餅をまくのも楽しい。わたしはわが家のアルバムの古写真で自分の姿を目にしただけなのに、祖父に抱かれて屋根の上からから元気よく餅をまいた記憶がくっきりとインプットされている。餅が発するパワーが写真に乗り移り、わたしの心に刷り込まれたのだろうか。
餅には霊力があるとされ、神社や寺の儀式にも欠かせない。その関連でいえば、福井県鯖江市河和田で取材したオコナイの餅まきは、なんとも迫力があった。
オコナイは京都などの大寺院の修正会や修二会が起こりといわれ、西日本を主にした各地に伝播して、五穀豊饒と地域安全を祈る民俗行事となった。滋賀県の湖北や甲賀では乗用車のタイヤほどもある特大鏡餅や彩りうるわしい餅花などを供えるが、福井の河和田ではそれらは簡略化され、餅まきをメインにした行事になっている。
河和田塗で知られる河和田は古来から漆器づくりの盛んな土地だが、オコナイのある一月中旬は雪に封じ込められる。集落の神社に向かうと、物売りの屋台まで出ていて、なかなかの賑わい。社殿は石段を上った高台にあり、裃をつけた厄年の男性がそこから餅を投げるのである。
村人たちが境内を埋めつくすと、餅まきが始まった。平べったい丸餅でかなり大きく、ピザパイほどもある。取り損ねた餅は泥が付いたり割れたりするが、そんなことは気にもせず、人々は我先に拾い上げる。と、隣に立っていたおばあさんがしゃがみ込んだ。あわてて様子を見ると、餅が額に命中したらしく顔面血まみれ。それでもご当人は餅を抱きしめ、にこにこ顔なのだ。
俳句では餅は冬の季語とされる。東日本の切り餅、西日本の丸餅と形が異なり、炭から電気、ガスへと熱源は変われど、餅を焼くときの厳粛な気持ちは古今東西不変である。欲張りなわたしは、正月は丸と四角の両方を用意する。食感が微妙に異なり、どちらもおいしいからだ。
なお、歳時記には、ひび割れたものを水に浸す水餅、寒中の寒餅、餅を凍結させる氷餅や凍(し)み餅もある。これらは正月の餅を残さず食べる知恵から始まっている。
かき餅、あられの類も餅に由来する食べもので、固くなったかけらを干して炭火で炙り、醤油や塩で味付けしたのが起こりである。それだけに、農家が副業で始めた店では、原料のもち米から自家栽培という例が多く、ひと味まさる。たとえば店主が「じつは、田んぼにいる時間のほうが長い」と笑う滋賀県大津市の八荒堂。香ばしくてさくさくだから、ぽりぽりが止まらなくて困る。
わたしは民家の建て込んだ下町育ちなので、臼と杵を持ち出し、湯気もうもうと米を蒸して餅をつく情景にずっとあこがれていた。それが思いがけなく実現したのは、家から独立し、部屋の改装をしたとき。大工の棟梁と知り合い、暮れの餅つき会に招かれたのだ。へっぴり腰ながら杵も持たせてもらった。そしてつきたてを大根おろしやあんこでほおばるうれしさ、楽しさ。お客たちがひと通り満腹したあとで、さらにひと臼ふた臼ついて、正月の餅に仕上げることを初めて知った。
最近は町内会主催の餅つきが集会所で開かれるので、糯米を蒸かす白い湯気やぺったんぺったんの音を楽しめる。おろし餅やあんころ餅も分けてもらえる。その行列に十代、二十代の姿も多いから、餅つきはこれからも年中行事として続くだろう。いえ、そうあってほしい。
餅つきの一音響くビルの間  千恵子

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[28 12月 2016 | No Comment | ]

和食にスポットが当たり始めるとともに、郷土料理が再認識されてきた。うれしいことだが、都会で味わうだけでは真の魅力はわからない。
たとえば秋田のきりたんぽ。近年は全国区の人気鍋ものになり、郷土料理店だけでなく居酒屋でも食べられ、鍋セットを取り寄せて家庭で楽しむこともできる。それはそれでおいしいのだが、雪国特有の湿りけのある寒気のもとで、湯気をふうふう吹きながらあつつっと口に入れるのとでは、美味の次元が異なる。きりたんぽは、地酒を酌みながら秋田訛りの人たちと鍋を囲んでこそしみじみする食べものだと思う。その席に秋田美人が加わっていようものなら、男性にも女性にも一生の思い出になるに違いない。
きりたんぽは、山で働くマタギや樵(きこり)がにぎり飯を串に刺して焚き火や囲炉裏で焼き、鍋に入れたのが始まり。たんぽとは槍の先にかぶせる覆いとも、蒲の穂の別称ともいわれ、秋田杉の串に巻き付けたご飯にそっくりだからと「たんぽ」と呼ばれるようになり、食べやすく切って煮るところから「きりたんぽ」に転じた。現代のご飯はブランド米・あきたこまちの新米なので、焼きたての香ばしさは天にも昇る心地。また、秋田杉と火の移り香が加わるので、思い出すだけでもたまらない。
きりたんぽと秋田県北部の地鶏を芹、舞茸、ごぼうなどと一緒に鶏ガラスープで煮たのが、きりたんぽ鍋。しかし、きりたんぽと言うだけできりたんぽ鍋を指す場合が多い。歳時記でもきりたんぽが冬の季語になっている。角川さんの句からも、鍋の中できりたんぽが香り野菜とともにくつくつ煮えている情景が浮かぶ。
ところで、山の男たちから始まったせいか、きりたんぽにはワイルドな感じが強い。でも、現地では味付け、具がさまざまなうえ、煮るときにはこまやかに細部にまで気を配る。だからこそ深いコク、余韻が生まれ、ひとすすりごとに、あたたかい郷愁の滋味が広がってくるのだ。
秋田で味わうのなら、おすすめは大館と鹿角のはしご。どちらも県北部の大きな街で、車なら約一時間の距離だが、大館は佐竹藩の、鹿角は南部藩の領地だったため、風土性は微妙に異なる。また大館は比内地鶏の元になった天然記念物・比内鶏の本場だし、鹿角はきりたんぽの発祥地だから、きりたんぽ鍋に関してはどちらも自負が強い。それが対抗意識を生み、おたがいに独自の味を生み出している。ここは、ぜひとも両方行ってみたいものだ。
皮切りは、飛行機で大館能代空港に降り立つのが便利。大館では毎日のようにどこかの集落で朝市が立ち、野菜や果物のほか農器具などまで並ぶが、冬はきりたんぽ鍋の材料が目玉商品。きりたんぽを焼きながら売り、ねぎ、舞茸、芹、ごぼう、里芋、食用菊、山の茸、しぼり大根と呼ぶ辛味大根は山盛りになっている。地元ではきりたんぽ鍋には芹や菊が不可欠で、数種類の茸や里芋が入ったり、大根の辛い汁をつけて食べる家もあるなど、風土色が濃いのだ。
比内地鶏は比内鶏の雄にロードアイランドなどの雌を交配させた一代交雑種で、茶色の羽毛をもち、肉は弾力感としなやかさを兼ね備えている。空港近くの「秋田高原フード」は飼育から食肉加工までの一貫生産で、味のよい雌だけを出荷している。
大館で食べる鍋は、きりたんぽの太さはさまざまだし、斜め切りにしたり、ちぎって入れるなどいろいろだけれど、鶏ガラでじっくりスープをとり、醤油、酒、みりんなどで調味するのは共通。煮込みすぎると雑味が出てしまい、せっかくのきりたんぽと鶏肉が泣くという。あつあつをふうふう食べると、黄金の脂が水玉に散った汁がおいしく、歯応えのいい鶏と、山の風趣に富む芹、茸などにもだしがよくしみている。
縄文遺跡の大湯環状列石がある鹿角でも、朝は市が見もの。そして、夕食はきりたんぽコーディネーターを自称する名物女将の「美ふじ」がいい。銀茸やなら茸などの天然茸をたっぷり入れた本格きりたんぽ鍋のほか、たんぽの穴に鰻の蒲焼を詰めたもの、開いてトマトソースとチーズで焼いたピザ風、古代米製たんぽなどのアイディアたんぽが揃っていて、いずれもうなってしまう味である。
なるほど、きりたんぽとは、どんな食べ方をしてもすばらしい究極の郷土米料理なのだった。
きりたんぽ火の香杉の香谺して  千恵子
 
 

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[5 12月 2016 | No Comment | ]

 ハロウィンの喧騒が過ぎたと思ったら、あっというまにクリスマスシーズンの到来。この国は、舶来というだけで大喜びで受け入れてしまう。わたしもその一人であって、キリスト教徒ではまったくないけれど、十二月二十四日には、イエスキリストの生誕日にはケーキを一切れでも食べないと落ち着かない。
 クリスマスイブにはケーキ丸ごと一個の大包みを抱えて帰らないと、一家の長としてのかっこがつかない──という風潮が生まれたのは、昭和三十年代のこと。第二次世界大戦後、洋菓子材料が入手できなかった頃、ケーキ職人たちはやむなく進駐軍の将校クラブやPXで働いたものだが、そこで目にしたのは、あでやかな七面鳥の丸焼きとクリスマスのデコレーションケーキ。
 まあ、目を見張ったにちがいない。そして、日本が復興し始めると、彼らは町場に戻って店を再開したり新規開業したが、そのうち何人かのアイディアマンが、おそらくは同時発生的に、教会のミサやサンタクロース等をロマンティックな夢いっぱいのイメージとして強調し、きらきらしたケーキをクリスマスの必須アイテムとして売り込んだ。店頭にはツリーを飾り、ケーキには「メリークリスマス」のカードリース、砂糖菓子のサンタなどをかわいらしくあしらったところ、これが大当たり。
 高度経済成長期にバリバリのサラリーマンだった男性にうかがったら、あの時代はクラブやキャバレーでケーキのお土産付きパーティ券を売り出したもので、クリスマスケーキを抱えてのご帰館はそれが始まりではないかとのこと。あれあれである。
 クリスマスケーキそのものも変遷してきた。当初はマーガリン混じりのバタークリームもどきで絞り出したピンクや緑の薔薇がデコレーションの中心だったが、良質の生クリームが出回りだすと、ホイップクリームと苺のコンビが子供たちの人気を独占した。おもちゃやマフラーなどプレゼントを買い込み、最後にケーキの箱を加えて大荷物で帰宅するお父さんの姿が目にも浮かんでくるが、そんな光景も最近は少なくなった。すべてネット通販なのだろうか。
 話をケーキにもどすと、昭和四十年代からは薪の形をしたブッシュドノエルが流行した。フランス語では「クリスマスの薪」の意味。その頃から欧米の一流シェフやパティシェが日本で開店するようになり、本場の本物を広めたのだ。フランス菓子では六本木の「ルコント」が先駆けで、クリスマスにはロールケーキにチョコレートクリームを塗り、フォークの先で木目を付けて、木の実を飾った“薪”が大流行りした。従来の丸形ケーキとは一味違う本場風デザインが若い女性の心を踊らせたのである。
そして現代は、クリスマスシュトレンがクリスマスケーキ界の先頭を行く。ドイツ発祥のイースト生地の焼き菓子だ。洋酒で漬け込んだ木の実やドライフルーツ、香辛料がどっさり入った生地を香ばしく焼き、粉砂糖をまぶして純白に仕上げ、透明セロファンできっちり包んである。時間をおくほど味が熟成するケーキなので、十一月のうちに買って、クリスマスイブまでを指折り数えながら待つのも楽しみのうちだ。
 このケーキは、産着にくるまれたキリストの姿をかたどったものといわれ、ドイツではシュトレンのコンクールがあって、優勝者は洋菓子マイスターの中でも最高の栄誉を得られる。広島の廿日市市には、コンクールで金メダルをとった日本人の職人が開いたドイツ菓子店「コンディトライ・フェルダーシェフ」があり、わたしは毎年ここのシュトレンを欠かさない。なお、ドイツではクッキー生地で組み立てるヘキセンハウスというお菓子の家もクリスマス名物だ。
 一方では、手作りのクリスマスケーキにまさるものはないとも思う。今年は、スポンジケーキ、苺、生クリームだけのシンプルなショートケーキでつくりたい。もっとも、苺はあまおう、生クリームは自然放牧牛ミルク製、スポンジ生地の卵や牛乳にも大いにこだわり、砂糖は和三盆糖で……。あれあれ、市販のケーキより高くつきそうだ。
クリスマスケーキ裸眼にまぶし飴細工  千恵子